富嶽:太田の有志、幻の爆撃機を大型ラジコンで復元 記念公園建設も計画中 /群馬
◇郷土の飛行機王が追いかけた技術と夢知って
第二次世界大戦中に計画されたが開発は中断され“幻の爆撃機”といわれる「富嶽(ふがく)」を、太田市の有志が大型ラジコン(RC)機として復元させている。「郷土の飛行機王が追いかけた技術と夢を多くの人に知ってほしい」。年数回のデモンストレーション飛行には、技術立国を支えた先達への尊敬の気持ちが込められている。【藤田祐子】
「富嶽」は尾島町(現太田市)出身の中島飛行機創始者、中島知久平氏(1884~1949)の立案を基に、1943年に計画が始まった。全長46メートル、両翼幅63メートルの大型爆撃機で太平洋を横断、米本土まで到達するという壮大な計画だったが、当時の技術力では実現の見込みはなく、製造には至らなかった。
“復元”の発端は98年、知久平氏の没後50年記念展を前に、太田市尾島町、自動車部品製造会社社長、正田雅造さん(58)が聞いた父、公威(こうい)さん=04年に86歳で死去=の一言だった。「富嶽を模型に起こせるか」。曽祖父の代から知久平氏と親交があり、中島飛行機の出入り業者だった縁で、公式には焼き捨てられたはずの「富嶽」の設計図を、公威さんは大切に保管していた。
青焼きの設計図を見て正田さんは驚いた。「知久平は輸送機など今の旅客機の前身となるものも設計していた。戦後の大量輸送時代を見越し、航空技術のあるべき姿を追いかけていたのだと思う」
500分の1設計図1枚を手がかりに木を削り出し、2カ月がかりで全長2・8メートル、翼幅3・3メートルの20分の1模型が完成。これを見た人たちから「飛ばしてみたい」という声が上がり、自然発生的に「富嶽を飛ばそう会」が生まれた。
地元企業・富士重工業や三洋電機のOB、流体力学の専門家ら約20人が集まった。長野県工科短期大学校の大澤清一副校長(56)がCAD(コンピューター利用設計システム)で立体図化し、15分の1のRC機「富嶽」の製作が始まった。
正田さんは資金や材料調達などの裏方に回った。毎週日曜日、太田市内の作業場に十数人が集まる。カッターを手に、CADの原寸図に沿って軽量バルサ材のベニヤ板を黙々と切り出す。参加した島岡芳和さん(55)=同市=は「重心がずれても曲面がゆがんでも飛行機は飛ばない。全員が仕事以上に職人の顔になっていた」と振り返る。
荷重のかかる両翼付け根にはF1レーシングカーと同じカーボン繊維のパーツを使用。長さ約3メートル、翼幅4・3メートル、重量は17キロの機体は完成した。00年11月、太田市尾島町の利根川河川敷で開かれた愛好家のイベント。数万人が見守る中、RC機「富嶽」は力強いエンジン音を響かせ、白い煙を引いて空に舞い上がった。公威さんが涙を浮かべるそばで、正田さんは「知久平が生涯をかけた技術への夢を共有した気持ちになった」という。
太田市は現在、知久平氏の業績を伝えようと「中島航空記念公園」(仮称)を計画中だ。大澤副校長は「乗用車や新幹線など、現在享受している科学技術には、戦時下で基礎が築かれたものも多い。現代の私たちが『戦争はもう昔のこと』『関係ない』と切り捨てることはできないはずだ」と話す。
8月30日朝刊
(毎日新聞)より引用
ラジコンといえば洛西モデル。みんなの夢をかなえよう!
PR