ノーモア水俣病:50年の証言/19 にせ患者/下 /熊本
◇逮捕も「生きた証し」--水俣の本質問う契機に
「『にせ患者』という言葉はチッソ擁護の立場(だからこそ出てきた言葉)なんです」。「水俣病患者連合」事務局長として患者支援を続ける高倉史朗さん(55)も、警察と衝突した75年の「にせ患者県議発言」抗議行動の現場にいた。
「社会的に上の立場の人が差別的なことを口に出して通る時代だった」。時間を経るごとに、初期の劇症型から外見からは症状が分かりにくい被害者が増えた水俣病の特徴も「にせ患者」発言を招く原因だった、と高倉さんはみている。
今でこそ、水俣病は神経からの感覚情報を処理する大脳皮質が有機水銀で障害を受ける「中枢説」が有力とみられるようになった。「単純で無意識の動作に支障は出ないが、意識して複雑な動作では症状が出る」とも指摘されている。
検診の際にまっすぐ歩くように言われた患者がその時はふらつき、検診を終えて帰る時には普通に歩けるといったことも起こるわけだ。だが、当時は患者に不信の目が向けられていった。
実際の姿は違っていた。高倉さんは、患者とキノコ栽培をしていたことがあった。体格が良く健康そうに見える人でも、同時に複数の作業をするのが難しかったり、道具などを渡そうとした時、視界が狭いため、うまく受け取れない。
高倉さんは「当時は『何をもってにせ患者というのか』を論理的に知りたいと思った」。水俣病の症状を論文にもまとめた。「にせ患者」として切り捨てられた認定申請者の行政不服審査請求や処分取り消し訴訟にもかかわり続けている。
県議の「にせ患者」発言から約30年。表向きは同じ言葉を聞くことはなくなった。「しかし現状は『にせ』と思っても口に出せないというだけ」と思う。
◇ ◇
水俣病認定申請患者協議会の副会長だった芦北町の緒方正人さん(52)は「抗議行動をやろう」と呼びかけた1人。県議への傷害などの疑いで逮捕された。「『金目当てのにせ患者』『暴力患者はこんなに過激な連中だ』と知らしめようとしたんでしょう」
だが、今は「いい思い出。だれも恨んでいない」と穏やかな表情で振り返る。「当時は警察、議会、検察官にも激しい怒りを覚えたけれど、生きていた証しというか……。裁判所が代わりに日記をつけていてくれたのだと思う」とほほえむ。逮捕は「にせ患者」という差別をどう乗りこえるか、水俣病の本質とは何かを考えるきっかけとなった。
事件から10年後の85年、緒方さんは認定申請を取り下げた。自分の存在を自問自答するうち「自分がチッソの労働者か幹部だったら同じことをしたのではないか」と思い至ったからだ。「人間が加害者、被害者のどちらか一方であることはありえない。チッソの人も立場を超えて目覚めてほしい」と思う。
そして、水銀を含む汚泥が埋めたてられた埋め立て地に手彫りの地蔵を置く「本願の会」を結成した。そこには「生命がよみがえることが一番大切」という願いが込められている。【水俣病問題取材班】
8月22日朝刊
(毎日新聞)より引用
kれぞまさしく人間不信です。こんなんじゃ、人を信じられなくなります。
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